2011.04.27
岩手県山田町での避難所炊き出しに スタッフをボランティア派遣
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、地震・津波・原発による被害が複合し、未曾有の大災害となっている。
その被災地のひとつ、岩手県にて支援活動を行なっている「CARE International Japan」は、世界中の紛争・災害被災地に対する自立支援を専門的に行なっている国際協力NGOである。今回の震災では岩手県沿岸部における5年間の計画的支援を決定し、現在はその第一フェーズとして食糧確保を中心に活動を行なっている。
■CARE International Japan「中長期事業戦略 東日本大震災への対応について」
http://www.careintjp.org/news/images/programoutline110330.pdf
イースクエアは、同組織の法人会員として協力関係にあることから、3班に分かれて2名づつ、のべ6名のスタッフをボランティア要員として派遣した。仕事の内容は、岩手県下閉伊郡山田町、町立山田南小学校に避難する約500名(4月初旬時点)への炊き出しである。
その活動の様子をレポートする。
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■A班■ 2011年4月4日 〜 4月6日
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その人がその人らしくあるために手助けすること
記:三觜英子 

「足手まといになりはしないか――。」
被災地での緊急ボランティア募集の話を聞いた時、災害ボランティア初心者の私は躊躇した。しかし、何かしなければという衝動に突き動かされ、ボランティアへの参加を決めた。
現地の情報は乏しい。インフラの復旧状況や宿泊場所・作業内容など不明な点が多かったが、最低限の身軽な装備と「やれることをなんでもやろう」という思いを胸に、4月3日深夜、長距離バスで地震の影響色濃い東北自動車道を北上し、岩手県を目指した。
4月4日の早朝、宮古駅からケアの車で避難所となっている小学校に向かった。
既に平静を取り戻しつつある宮古駅周辺から車で少し離れると、景色は一変。山積みにされた瓦礫、1階部分が波で打抜かれた家屋、焼け焦げて骨組だけになった店舗、ひっくり返った車、欄干にひっかかったままの漁船・・・ニュースで何度も目にした光景が現実の世界として拡がっていた。瓦礫のすぐそばを行き交う人々の姿に、想像を超えた絶望の中にあっても毎日を送らなければならないという壮絶な現実を知った。
フランス料理のシェフでもある剛毅な女性料理隊長から与えられた最初の仕事は、理科室に積み上げられた食材の整理だった。そこには隊長が地元長野の生産者の方々から融通していただいたたくさんの野菜や調味料が所狭しと積み上げられていた。
4月の始め、まだ雪降る岩手県と言えども、冷蔵庫のない環境では食材の鮮度管理に十分な注意を払う必要がある。間違っても食中毒を出すようなことがあってはならないからだ。きゅうり・ナス・サトイモを早めに使用する必要があることを隊長に伝え、大量のサトイモをベランダで天日干しする応急処置を行った。
その夜の炊き出しからはそれらの食材を優先的に使用する献立が考えられた。ナスの煮浸し、きゅうりの浅漬け、サトイモのお味噌汁・・・といった具合だ。献立は、人参やゴボウなどの繊維質の多い根菜や、消化酵素の豊富な大根おろし、砂出し効果の高いこんにゃくなどを中心に、活力がつく鶏肉のカラアゲや焼肉も登場した。みなさんに少しでもほっとしていただければ、と郷愁を誘う野菜たっぷりのすいとんも作った。長引く避難所生活で疲弊してしまった皆さんの胃腸を、まずは動かし、少しでも食事に楽しみを見出してもらえるように、そしてそれがどうか毎日の生きる力に繋がりますように、という祈るような隊長の想いがそこにある。
数日後、「山田南小学校の炊き出しは美味しくて元気が出るって評判になってるよ」そう宿泊地のおやじさんが教えてくれた時の隊長の嬉しそうな顔、そして今回の支援の統括責任者であるCAREの貝原塚二葉さんの涙が忘れられない。
宿泊地近くの小さな入り江は隠れた海水浴スポットで、地元の人の自慢の海岸だったという。
その海岸ももはや原形をとどめていない。頑強な防波堤に囲まれた静かで美しかったはずの砂浜には分厚いコンクリートの堤防が積み木のように転がり、近くの巨大な養殖施設はまるでブリキのおもちゃのようにひしゃげていた。海に注ぐ川を津波が逆流し、海辺近くの民家も甚大な被害を受けていたが、地震から3週間が経ち瓦礫の片付けが進む市街地とは対照的に、人里離れた被災地はまるで忘れられたようにあの日のままだった。
今回のボランティアは「ケアすること」について考える機会になった。
「ケア」とは決して押し付けるものではなく「その人がその人らしくあるために手助けすること」だ。そのためには、相手の気持ちに寄り添い、注意深く手助けすべきことを感じ取る感受性が何より必要だろう。そして「ケア」によってケアする人もまた成長する。自分の能力を客観視し、社会の中での役割や支えあう事の大切さを知り、自分を見つめ直すことができる。貴重な経験をさせていただいた事に深く感謝すると共に、微力ながら被災地の皆さんが「その人らしくあるため」のケアを続けていきたいと思う。
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■B班■ 2011年4月7日 〜 4月12日
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4月11日14時46分 黙とう後の調理場の静けさ
記:吉田裕子 

調理隊の朝は早い。
午前4時に起床して手早く身支度し、4時半には隊長(プロの料理長の池田美佐子さんを私たちはこう呼んだ)以下、副隊長(こちらもプロで池田さんにスカウトされた岩崎涼子さん)、ボランティアメンバー(イースクエアからの2人の他、海外青年協力隊OBの皆さん)揃って車に乗り込む。総勢7〜8人。あたりはまだ暗く、氷点下に冷え込むこともある。
宮古市女遊戸(おなっぺ)の宿を出た車は、宮古市街地を横目に通り過ぎ、海岸に沿って山田町に向けて走る。空が静かに白んでいく。穏やかで澄んだ海とは対照的に、海岸線には廃墟と化した街並みが続く。
30分ほどで山田町の高台に立つ山田南小学校に到着する。空は既に明るい。3階の家庭科室(ここが臨時の調理場である)に上がった我々は、約500人分の朝食として味噌汁を作るため、4つの大鍋を次々に火にかけていく。これが私たちの一日の幕開けである。
このミッションではチームワークが何より重要である。
隊長・副隊長が包丁片手に指示を飛ばし、それをボランティアがサポートする。隊長の口癖は「適材適所」である。料理が得意な者は率先して包丁を握り、それ以外の者は鍋の準備や空き箱を利用した急ごしらえの食器製作、あるいは洗いなどに積極的に向かう。ひとりとして手を遊ばせている者はいない。
池田隊長は八面六臂の活躍である。被災された方々の健康を考慮しつつバラエティ豊かな献立を二日後、三日後まで組み立て、約500人分の朝夕の食事をきっかりと仕上げていく。隊長の号令のもと、天ぷらそば、いなりずし、牛丼、カレーライス、タラ汁などが次々と私たちの手で作られていった。
最も印象的だったのは「タラ汁」。池田隊長は漁業が盛んな山田町の方々に、地元料理のタラ汁を食べて欲しい一心で、少量の身でも満足してもらえるよう調理法を工夫した。一口大に切ったタラに粉をまぶして蒸し、汁に入れる、という方法である。限られた時間と少ない調理器具に苦戦しつつも完成したタラ汁は好評を博し、その後、避難所の子供から食べたいものリストの手紙をもらうなど、被災された方々との距離が縮まったように感じた。
地震発生から1ヶ月経った4月11日、山田町では地震発生時刻14時46分に合わせて黙とうを行った。調理隊は家庭科室のベランダに並んでがれきのむこう側に広がる海に向かい、サイレンと同時に亡くなられた方々の冥福を祈った。校庭に人はまばらだったが、何人かの方々が海の方を向いて手を合わせていた。普段威勢の良い隊長は少し涙ぐんでいた。
黙とう後、普段は賑やかな調理場では話をする人はなく、皆黙々と作業している。亡くなられた方だけでなく、生き残った方々も地獄を見たに違いない、大根を切りながらふとそう思った。私たちの前ではそんなそぶりを微塵も見せない被災者の方々だが、黙って海を見つめていたその姿に胸を打たれた。
私たちB班の最終日、CAREの方が避難所内を案内してくださった。お話を伺った女性が「地震後の2週間で痩せてしまったが、その後暖かくて美味しい食事をいただいてむしろ太ってしまって」と笑いながら話してくださった時、隊長のもう一つの口癖の「食欲が出てきた、ということは元気になってきたという証拠」という言葉が頭に浮かんだ。
たった1週間足らずのボランティア体験だったが、微力ながらも被災者の方々のお役に立てた…と思う。その機会を与えて下さり、暖かく私たちを迎えて下さったCAREの皆さん、ご指導下さった池田さん、岩崎さん、及びボランティア仲間の皆さん、そして我々を快く送り出してくれたイースクエアの皆さんに感謝したい。
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■C班■ 4月13日 〜 4月17日
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空気を読み、想像力を働かせること
記:池田 万里子 

南小学校における食事提供は16日が最終日となっていた。新学期の開始に伴い、避難所となっている体育館以外のスペースは、児童が使えるように学校に返すためだ。その後は、避難されている皆さん自身が食事を作り、CAREの調理班は山田町内の別の避難所へと拠点を移す。
いったんの区切りとなるその日に向けて、13〜16日は、皆さんから寄せられたリクエストメニューがいくつも出された。酢の物、鯖の味噌煮、焼き鮭など。
特に料理長の思い入れが強かったのが煮込みハンバーグ、ナポリタンだった。この春小学校に入学するという少女がわざわざ調理場まで手紙を持ってきて、食事へのお礼の言葉とともに「できれば食べたい」と伝えてくれたメニューである。その手紙は大切に黒板に張られていた。
14日には、CAREのスタッフとボランティア全員によるミーティングが行われた。
今感じていることや、次の拠点における食事提供方法についての意見交換である。「調理を一緒にして頂くのはどうか」「それはニーズを確認してから」「郷土料理を教えてもらおう」など様々な意見が出された。
皆に共通した考えでもあり、今回の私自身の学びでもあったのが、ボランティアは「助ける」のではなく、少しでも日常を取り戻してもらうために「お手伝いする」立場だということだ。「空気を読み、それに応えながら共に前進することが大切」という料理長の言葉が印象的だった。ボランティアは支援活動の一部始終に関われるわけではない。被災された方との接点を多くは持てない場合もある。その上で大切なのは、直接、間接的に感じた空気を読み、想像力を働かせながら仕事に従事することだと感じた。
15日は最も印象的な1日だった。
夕方、全員で避難所を訪れ、移動前の挨拶をする予定になっていたのだが、私たちは折り鶴を一人一人に手渡すことにしていた。その鶴は、あえて首を折らず、翼を広げず「いつか皆さんが羽ばたきたいと思った日に広げてほしい」という願いが込められている。朝から調理班とは別に鶴折り班が結成され、300羽以上の鶴を折り続けた。
その作業のさなか、いつも食事を受け取りに来る女性が調理場を訪れてきた。「明日が最後だから」と、皆さんで栞人形を作ってくれたのだ。色鮮やかな栞はどれとして同じものはなく、細部まで丁寧に作られている。私たちの集中力は高まり、一気に準備が整った。
体育館での料理長の挨拶は、「(前にも挨拶に来た)私のことを覚えている人〜?」という呼びかけで始まった(挙手多数)。それに続けて、食事提供を通して学ばせて頂いたことへの感謝、「今度は皆さんの料理を食べさせてほしい」というお願い、そして、「これからもお手伝いさせてほしい」というメッセージを伝えた。会場からの拍手が温かい。10日間の活動を通して、健康の回復にお役に立てていたことの表れだと感じた。
鶴を手渡しにいったときの会話やその後回収したアンケートからも、「温かい食事で元気になった」「今度は鱈汁を食べに来て」といった嬉しい言葉も沢山頂いた。一方で、今後自分たちだけで食事を作っていくことや、住宅や職について先行きが見えないことへの不安も寄せられた。吐露して頂いた不安が1日も早く解消されるように、CAREは今後も活動を展開していく。
16日、朝・夕の食事を受け渡し、南小学校での炊き出しは終了。
17日、家庭科室、理科室、トイレ、階段を徹底的にきれいにし、学校を後にした。
その足で私たちは宿から4km北上した田老町を視察した。世界に誇る高さ10m、三重の防潮堤を構えながら最大38mの波に飲みこまれてしまった町である。私たちは残った堤防の上に立ち、360度目の前に広がる光景を見渡した。魚市場や加工工場が破壊されている海の方角、既に土地がならされつつある堤防と堤防の間のエリア、爪痕が生々しい山の方角。山田町よりも歩く人が少ない。
今回の東日本大震災は被災エリアが広く、刻一刻と変わる全地域の状況を知ることは難しい。それでも、機会を頂き、1つの現場に入ることができたのは復興支援に関わり続ける上で貴重な体験となった。今後も微力ながらできることを行いたい。そして、いつか穏やかな日常生活を送る宮古市・山田町を見たいと思う。

